20060623

20060623-kenobi*109 日本の敗退から見えた課題についての考察(固い)

負けた。完敗だった。ロナウジーニョ、カカー、GKまでもを途中交替させられ、余裕の試合運びを優々とされた。
見ていた俺は試合終了と同時に涙が出た。そのくらい悔しかった。自分の事以外で泣くのなんて、ここ5年くらいなかったんじゃないだろうか。
4年前のトルコ戦のときも涙は出なかったし。

結果が全て。「実力を出し切れない」というのが実力。
勝ち点1。得点2。得失点差−5。
日本の黄金世代のワールドカップは、グループF最下位で終わった。

あやふやに終わらせてはいけない。
かといって、批判に一生懸命になり、そこに終始してもいけないと思う。
敗因を全ての側面から分析し、4年後にはこの教訓を生かせる「国」にならないと。


俺はこれからの日本のサッカーが心配だ。
果たして国民は成長できるのかという意味で。
3大会連続でW杯に出場できた事は誇りを持っていい事だ。アジアチャンピオンだ。
そして、出場した選手達自身には何も恥じる事はないと思う。
そこを今回のワールドカップで日本を応援した人間は忘れてはいけない。

現在の日本の国民・報道媒体。
誇りに持つべき所は誇りに持ち、批判すべき所は、「今後に生かす為」という大前提のもと批判するという能力のレベルは非常に低い気がする。
(低い媒体、人々が多い気がする)

放送局の中継は利益が絡むビジネスである
数字を取るために、国民の感情に合わせて盛り上げなくてはいけない。試合の前段階から批判はしない。
解説者・進行役も国民の感情に反した批判をすると物議を醸し出し、おまんまの食い上げになるために当り障りのないことしかいうことが出来ない。
タレントに「不敗神話です!」と叫ぶ客寄せピエロを要求する(俺は香取慎吾は大好きだけど、あれは彼自身の株を下げるよ)。
それを許し、振り回されている視聴者。テレビを信用しすぎる人々が多いのも事実。
日本は特にその傾向が強いように感じる。


罪はどこにあるのか。
大衆にある。
生ぬるい戦いを許してしまう国民にある。
生ぬるい戦いを擁護するテレビ局を信じている国民にある。
俺もまだまだそうかもしれない。

「ワールドカップ(予選)を国民全体で現実的に闘う、サッカーの盛んな日本」になってから、まだ15年ほどしか経っていない。
サッカー専門番組だって、始まってから十数年。
国民の大半が(野球のように)しっかりと批判のできるような――つまり世論を強力に形成できるような――基盤はまだまだ出来ていない。
1人の言動に報道が右往左往されるようなスーパースターが出てきてからも、わずか十数年。(カズ→中田・中村)
サッカーの報道が一般誌の1面を飾るように(つまり、国民がそれを求めるように)なってから十数年。
プロサッカーリーグが出来てから十数年。ヨーロッパの1/10。
日本国民全体に、「経験」が不足しているのだ。


これらはワールドカップに出たからこそ考えられるレベルの問題である。
この「経験」を選手や協会、サッカー界が踏まえるのは当然の事であって、本当に踏まえなければいけないのは、我々大衆のほうなのではないだろうか。

上の事を全て踏まえた点で、ジーコと今回の日本代表に、俺は一言言いたい。
「ありがとう。きっと糧にするから。」
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ありがとうブラジル
Excerpt: ついに終戦ですねぇ。日本人は気持ちの整理が下手ですから、ウダウダになるところだったけど、ブラジルにボコボコにされて本当に良かったと思う。やはりピッチに立つ選手の意識に違いがありすぎた。正直、フランス大..
Weblog: さすらい科学者~旅情編~
Tracked: 2006-06-23 20:39
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